国民には自衛隊員の安全に最大限の関心を払う義務がある
安保法制は憲法解釈の問題だけではない。自衛隊員の命の問題を私たち国民は忘れていないだろうか。自衛隊が、憲法上どう解釈されようが、自衛隊員の日々の活躍のお陰で私たちは、現在、安全な生活が送れているという事実に目を向ける必要があると思う。自衛隊は、日本の防衛だけでなく、災害時に人命救助や災害復旧に欠かすことのできない存在だ。私たちは、自衛隊員の自らの危険を顧みない活動のお陰で安心で安全な生活を営むことができている。
だから、私たち国民は、見返りに自衛隊員の安全に最大限の関心を払う義務があるように思う。国の誤った政策や組織の無謀な運営から自衛隊員を守り、自衛隊員の命の危険を最小限に抑える政策を取る政権を選択する義務があると思う。私たちは、自分たちの命の危険について自ら積極的に発言できない自衛隊員の代わりに声を上げる必要がある。
→「憲法9条は核兵器より強力だ」米軍元海兵隊員が語った本当の戦争と日本国憲法の価値
→自衛隊員への遺書強制だけではない! 安保法制にあわせ自衛隊が“戦死”前提の調査実施
→「戦争の実情分かってない」=元自衛官、シンポで講演-東京~「戦争の実情が分かっていない安倍(晋三)首相の言うように自衛隊を運用すれば、小隊は全滅する」と断言した。
◇「自国守るため」論理破綻 首相のおごり不信拡大(2015年7月17日 東京新聞)~全ての根源は、他国を守るのが集団的自衛権なのに、「自国を守るための集団的自衛権」と、論理的に成り立たないことを進めようとしているからだ。世界の集団的自衛で過去に例がない「自国を守るための集団的自衛権」との考えに無理がある。…国民が理解していること以上のことを自衛隊にやらせてはいけないということ。自衛隊に対する国民の支持の基盤が失われてしまう。安保改定と国連平和維持活動(PKO)協力法では、自衛隊は海外で一人も殺さず、殺されなかった。今回の法案はその逆になってしまうからだ
武力は、平和をもたらさない
集団的自衛権の行使は、いたずらに自衛隊員の命の危険を高めることになり、私たち国民もテロ等の報復によるリスクを負うことになるだろう。一度、死者が出れば、小さな衝突が取り返しのつかない戦争に巻き込まれる危険性がある。米国によるイラクやシリアへの介入がテロ組織イスラム国を生み、終わりの見えないテロの連鎖を生んでいる。武力は、平和をもたらさないことは、紛れもない事実だと思う。
→田原×鳥越対談「米軍と共に戦うと、新幹線テロが起こる」(鳥越)
→約8割が国内テロに不安=「便利さより安全」9割超-内閣府調査
国民の生命には、たぶん関心がない
それなのに積極的平和主義という薄っぺらなスローガンで武力行使を正当化し、自衛隊員を駒のように動かして生命の危険に晒そうとしている安倍政権をもう容認することはできない。経済的利益を優先して安倍政権に協力している経済界や一部マスコミに対して私たち国民はノーと言う責任がある。
私は、3月のチュニジアのテロ事件のテレビの第一報を見ていて、まだ状況が正確に把握できていない段階なのに安倍首相が「国際社会と連携してテロとの戦いに全力を尽くす」と強調していたことに強い違和感を覚えた。この人は、テロで日本人が死んだことより、事件を自分の政策のピーアールに使いたいのだろうかと思ってしまった。国民の生命には、たぶん関心がないのだろう。その、一方で、テレビ番組に出演した安倍首相が「私はお国のために死ねる。○か×か?」という質問に△のパネルを挙げていたそうだ。
→安倍首相が「国のために死ねるか」の質問に「△」と答えた事が判明! それで国民には命を捨てさせるのか
夢の続きはご免だ!
最近まで知らなかったが、安倍首相が、第1次安倍政権でやり残したことが、2007年4月に自ら立ち上げた「安全保障の法整備の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の続きだったことに気づいた。第2次安倍政権後に「安保法制懇を13年2月に再開し、14年7月に提出された報告書をもとに、政府として集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を閣議決定」し、現在、安保法制 が国会で審議されているわけだ。
→安保法制、25年間の道のり——集団的自衛権行使容認への背景
手段を選ばない確信犯
そして、長期延長国会で最終的に強行採決を目論んでいることは自明であり、安倍首相は、そういう意味で確信犯だ。最終目標は、憲法改正だ。安保法制が成立すれば、海外派兵を本当に行う可能性があると私は思う。そして、派兵で生じた問題の解決のために憲法の不備を主張することになるのではないかと思う。その時は、おそらく、自衛隊員の命や国民の命を守るのが政府の使命だとでも言うつもりだろうか。
→安保国会終盤で再注目される三島由紀夫の「自衛隊二分論」とは?~実は、極めて基本的な論点がひとつ抜け落ちている。それは、自衛隊は軍隊ではないため軍法会議が存在しないという点です。
◇集団的自衛権:首相、「明白な危機」で行使可能(毎日新聞 2015年07月10日)~政府関係者は「首相の見解はあくまで一例に過ぎない。米軍が朝鮮半島有事で戦闘に入った段階で、日本が集団的自衛権を行使することは可能だ。法案が成立すれば、集団的自衛権を幅広に認定できるようになる」と語る。
→自衛隊が海外で市民を殺す・・・新しい安全保障法制が引き起こす事態を戦場のリアリティーとして想定すべきだ
→自民、憲法改正で本格街宣 「決めるのは国民」~旭日旗のアイパッド・ケースをつけた30代の女性は、友人らと仕事帰りに立ち寄ったという。自民党支持者だ。憲法改正で具体的に思うところがあるか聞くと、みな異口同音に「(現行憲法は)日本語がおかしい。テニヲハがおかしい」。さらに「9条を停止してもらいたい。1項として戦争反対しているのに、2項は武力を持たないという。戦争を放棄するためには国を守る力が必要だ」という。(下の写真は、この記事に掲載されていたもの。)
◇5月20日に有楽町駅前で自民党の憲法改正を訴える本格的な街頭演説会が行われたが、街宣車には「報道機関に対する威圧発言問題」で更迭された木原稔青年局長の姿も見える。記事は、「街宣車には、磯崎陽輔・憲法改正推進本部事務局長、船田元・憲法改正推進本部長、木原稔・青年局長、三原じゅん子・女性局長などが並んだ。」と報じている。
自民党の憲法草案では、「公益及び公の秩序」を理由に表現の自由の制限が盛り込まれているから、勉強会「文化芸術懇話会」で出た政権に批判的な言論を封じるような声は、現在の自民党の姿を表しているのではないだろうか。
谷垣禎一幹事長は、NHKの番組で、「メディアの糧道を絶つなどというのは、権力にある政党として、報道の自由に対する姿勢からしても極めて誤解を招くものだった」と指摘。木原氏の更迭は大変申し訳ないという思いを込めたと謝罪した。」と報じられているが、谷垣氏も街宣車でマイクを握っていたことを考えれば、トカゲの尻尾切りをしただけだろう。
→温厚な谷垣氏もさすがに激怒 報道機関への圧力発言 「与党議員の自覚足りない」
→マスコミを懲らしめたい政治家とメディアの呆れた応酬(下)~〈こいつの学習能力は永遠のゼロか〉…ちなみに、『文化芸術懇話会』は、「真の政治家」になるための教養を学ぶことを目的に設立されたそうだ。
維新の党顧問の松井氏(大阪府知事)は、自民党の勉強会で講師を務め、不適切発言を行い、その後も「内輪の席での発言だ。」と主張している作家の百田尚樹氏を「百田さんにも表現と言論の自由はある」と擁護している。しかし、発言内容は、百田氏とお友達の産経新聞が「国民の憲法」要綱の表現の自由を制限する理由の一つとしている「道徳および青少年の保護のため」という条項に抵触しているのではないだろうか?
これは、お友達のかばい合いの連鎖なのだろうか。そもそも百田氏の発言を擁護する必要があるのだろうか。百田氏は、その後も沖縄を侮辱するような発言を繰り返しており、(元)NHK経営委員に任命した安倍首相の見識が疑われる。安倍首相のお友達は、良識が疑われる人ばかりのように思う。まともな一般人なら、百田氏の講演での発言は、聞くに堪えない内容だと感じただろう。それを笑って聞いていた自民党員のレベルの低さこそ問われるべきだ。そもそもこんな良識を外れた発言が許されるのも現在の憲法のお陰だろう。こんな人たちに改憲を唱える資格はない。
→「広告を出すな」「沖縄メディアをつぶせ」自民党勉強会が教えてくれたこと
→「問題発言」を繰り返すのは、安倍政権の高度な世論操作プロレスだと考えてみる
→辛坊も松井も安倍も…注意!「百田尚樹の言論の自由」を叫ぶ者こそが言論弾圧を狙っている!
国民の劣情に火をつけるつもりだろうか
橋下市長は既得権益の破壊で大阪市民の劣情(例えば、公務員給与が高すぎる!)に火をつけたが、安倍首相はどんな方法で国民の劣情に火をつけるつもりだろうか。安保法制という既成事実が憲法改正のバネになる可能性がある。自衛隊員の命と国民の命を守ることができるのは、私たち国民の良識のように思う。
大きな代償
難しいことが分からないと考える人もいると思うが、他人任せにせず、自分で考えて欲しい。武力は、平和を破壊するだけで何も解決しないことは、イラク戦争やシリア紛争で証明されている。そして、一度、平和が破壊されると大きな代償を払ってからでないと回復できないことは、広島や長崎の原爆投下、そして多くの戦死者の累積の上に現在の日本の平和があることに思い至れば、武力行使が何の解決にもつながらないことが簡単に分かるだろう。劣情は、一瞬。後悔は一生。
おしまい
(追記)産経新聞の「国民の憲法」要綱を知っていますか?
産経新聞は、80周年記念事業として公表した「国民の憲法」要綱の第28条第3項で「表現の自由は、第一八条〔基本的人権の制限〕によるほか、道徳および青少年の保護のため、法律により制限することができる。」と規定し、自民党の憲法草案より制限の内容が拡大されている。
知る権利を守るために消費税の軽減税率の適用を求めている新聞が自ら表現の自由の制限を主張している。「国民の憲法」要綱は、基本的には、自民党の憲法草案をなぞった内容だ。まるで、産経新聞は、自民党機関誌のようだ。しかし、「道徳および青少年の保護のため」という価値観に関わる事項を法律で規制しようとする発想には、驚きを越えて、怒りを覚える。こうした法律ができたら、マスコミだけでなく、個人も自由な情報発信ができなくなるだろう。
<自民党憲法草案の条文解説・総論(概要)>同名サイトよりの抜粋
憲法とはなんだったのか
憲法は、法律ではありません。近代立憲主義憲法は、国家権力を制限し人権を保障する法です。つまり、法律を作るときや、それを運用するときに守らなければならないことを示し、国民が国家に遵守させるという、法律とは逆方向の役割を本質とする法です。時に国家は暴走するという歴史的教訓から生まれた役割であり、日本国憲法も、(制定過程の議論はしませんが、少なくとも内容において)そのような役割を担っています。
今回の草案(自民党の作成した憲法草案)は、そうした従来の意味での憲法ではありません(その事実についてどう考えるかは自由です。)。つまり、現行憲法では公務員のみが負っている憲法尊重義務を全国民が負い(102条1項。これはQ&Aによれば「遵守」より重い義務です。)、「公益及び公の秩序」(12条後段、13条後段、21条2項等)による人権制限が認められ、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」(12条後段)することが要求され、国民の義務が大幅に増え、前文冒頭の主語が国家になるなどして、国家から国民への法に変容しているのです。
全体にかかわる変更点
(1) 国民の義務が増える
明確に増えた義務(3条2項、19条の2、92条2項、99条3項、102条1項)のほかにも、国民に一定の態度を要求している部分が相当数あります(前文3段以下、9条の3、12条前段、12条後段、21条3項、24条1項、24条2項、25条の2等)。これらは全て、憲法尊重義務を負うことによって、国民が守らなければならない事項になっているわけですから、法律により具体化されることで明確に憲法上の義務となり得ます。義務は大日本帝国憲法では2個、現行憲法では3個だったのに対し、 草案では21個あるとの指摘を掲示板で頂いています。
(2) 個人の尊重がなくなる
人権とは、生きること、幸福を追求すること、意見を言うこと、好きなことを考えることなど、人に欠かせないあらゆる権利のことです。まとめて基本的人権(現行97条)といったりします。
こうした全ての人権の根幹をなす「個人」の尊重(13条)が、「人」の尊重に変わっています。これについて、起草委員会事務局長の私見ではありますが、「個人主義を助長してきた嫌いがあるので」変えたとされています。利己主義の助長ではなく個人主義の助長を問題視しているということは、全体主義方向への変化を目指したということです。
そもそも、多数派は権力を握れるわけですから、憲法が力を発揮するのは、多数決原理では奪えない少数派の人権を保護する局面です。そのため、個人主義を少なくとも後退させ、和(草案前文)を乱す個人を尊重しないのであれば、憲法の存在意義が乏しいことになります。憲法が骨抜きになってしまう、見方をかえれば、憲法を骨抜きにすることができる、ということです。
(3) 「公共の福祉」ではなくなる
人権が重要だとはいっても、例えば名誉毀損が罪になることからもわかるように、一定の制約を受けています。国家権力が人権を制限する主要な根拠は、「公共の福祉」でした。
「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」とQ&Aにあります。
従来、「公共の福祉」(12条後段、13条後段)による人権制約は、他の人権に資する場合(人権の合計が大きくなる場合)にのみ認められるのであり、他の人権の集合とは異なる「公益」的な何かは存在しないと考えるのが一般でしたが、そのような考え方をしないことを明確にしました。誰の人権のためにもならないが公益にはなるという場合を明確に観念して運用されるわけですから、全ての人権の尊重度が弱まります。具体的にどうなり得るのかは各条文をご覧ください。
言論や芸術などの表現の自由に対する規制については、「公共の福祉」のなかった21条に「公益及び公の秩序」を入れていますので特に変化が大きいです。
(4) 同じ文言でも解釈が変わる
このような憲法の趣旨に照らして各々の文言が解釈されますから、形式的には何ら変わっていない文言であっても、解釈が変わるものが多いです。
例えば、「思想及び良心の自由」(19条)という文言は全く変わっていませんが、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(3条2項)ことによって、日本代表の試合で君が代を声に出して歌わない自由は「思想及び良心の自由」(19条)に含まれにくくなります。
「表現の自由」(21条1項)という文言も変わっていません。しかし、追加された21条2項による制限があります。また、「投票価値の徹底した平等を実現しよう」というビラを配る場合、行政区画等も勘案するとする草案47条に反しており、憲法尊重義務(102条1項)を守っていないため、「表現の自由」(21条1項)として保護されにくくなり、ピザ屋がビラ配布の際に当たり前にやっているような軽微な建造物侵入でも捕まりやすいことになる、というふうに他の条文の影響を受けます。
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