マニュアルとしての「おもてなし」
東京オリンピックの招致のプレゼンテーションで「おもてなし」という言葉が注目を浴び、最近は、言葉だけが一人歩きしているように思う。うわべだけのマニュアル化された「おもてなし」が多いように思う。場合によると言葉だけのサービスや過剰サービスと思われるケースがある。
「おもてなし」とは、感謝の気持ちの表れだと思う。感謝の気持ちのない「おもてなし」は、単なる接客マニュアルの一部に過ぎない。「おもてなし」とは、相手の立場に立って考えて自然に出てくる所作や行為のように思う。マニュアル化された「おもてなし」は、相手の心に響かない。
マニュアルとしての「おもてなし」を教えるのではなく、相手の立場に立った所作や行動をするように教えるべきではないだろうか。マニュアルは、明らかな禁止事項や必要不可欠の基本だけで十分だと思う。業務の遂行に必要な詳細な作業マニュアルは別途作成すればいい。ただし、安全、安心、法令遵守以外の事項については、極力、創意工夫の余地を残すべきだと思う。画一化された業務に「おもてなし」の心は生まれないように思う。
観客席のごみ拾い
サッカーのW杯で日本人サポーターが観客席のごみ拾いをしたことがマスコミで大きく報じられ、日本人が優れた国民のようなコメントが多い。しかし、車から道路の沿道にごみやたばこの吸い殻を捨てる日本人もいることも事実だ。また、交差点の近くに停車する車や周囲に対する迷惑を考えない人々も多い。
サッカーでのごみ拾いは、日本人が優れているという報道ではなく、観客がごみを片付ける行為は、いい文化だというメッセージとして報道されるべきのように思う。日本のクールな文化として紹介されるべきだ。韓国や中国の人が、みんなマナーが悪いということではないし、「おもてなし」の心を持っていない訳ではないと思う。 NHKの中国の紀行番組に出てくる中国の庶民を見ていると私たちと変わらぬ感性を持っているなと思う。
日本人でも、自己本位で「おもてなし」の心の欠片も感じられない人々が回りに多くいるように思う。企業に勤めているなら周囲を見渡せば、相手の立場に立って考え、行動している人がどれだけいるだろうか。相手の立場に立って考えることができない人がにわかに「おもてなし」を口にしても誰が信用するだろうか。
譲る心
先日、朝の9時台の電車に乗るためにホームで電車が来るのを待っているとき、中年のサラリーマンと見られる体格のいい男性が私より先に来て電車を待っていた。私は、2列乗車なのでその横に立っていた。しかし、この男性が電車の扉の真ん中付近の位置に立っていたため、私はホームに書かれた線の横に立たざるを得なかった。
そして、案の定、電車が来たときにこの男性は扉の前に仁王立ちになり、他の乗客を通せんぼするように乗り込み、左右の席を見渡して自分の席を物色してから座っていた。電車は、既に通勤時間帯を過ぎており、空席が目立ち、乗った人は誰でも座れる状態であったにもかかわらず、何故、こんな行動をするのだろうかと思った。
こんな人が、勤務先で意外と「おもてなし」を部下に訓話していたりするのが現実ではないだろうか。また、並んでいる列の先頭の隙間から一番に乗り込む人もいる。案外と老人が多い。こういう人には、席を譲ってあげたいという気持ちが失せてしまう。
感謝の気持ち
私は、エレベーターの乗降でいつも思うことがある。乗降の際に他の乗降者のためにエレベーターの開ボタンを押している人に何故、ひと言のお礼も言わずに乗降する人がいるのだろうか。素直にありがとうございますのひと言を何故言わないのだろうか。そのひと言でお互いが気持ちよくなることを知らないのだろうか。
ひと言を言わないのはいい大人や老人の方が多いように思う。若者の方が、ありがとうの言葉を発しているように思う。私も老人の仲間だが、老人を大切にしろという老人には共感できない。無論、若者を大切にしろという若者にも共感できない。それぞれがお互いに尊重してお互いを大切したいという気持ちを持ってこそ意味があるように思う。 おしまい
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