私は、何故か子供の頃から犬が好きだった。私は、5歳から中1まで世田谷公園に近い団地で育った。5階建ての団地の1階に住んでいた。飼い主のいない犬を見つけると空の段ボール箱を調達してベランダの下の空間に犬を匿ったりした。しかし、だいたい数日もすると犬はいなくなってしまっていたように思う。
団地住まいなので犬を正式に飼うことはできなかった。どうして私は、犬がこんなに好きなのだろうと考えることがある。一方で猫は苦手だ。猫は、人に懐かないという想いがあり、猫がネズミを食べる動物だということも引っかかっているようだ。
ネズミとゴキブリは、生理的に駄目だ。ネズミやゴキブリと共存できないように猫を飼うことは私には無理だ。無論、猫好きの方まで嫌いだということではない。人は人。犬が嫌いな人もいる。有名な犬嫌いは、歌手の和田アキ子だ。
最近、「犬と人の生物学」(スタンレー・コレン著、三木直子訳)という本を読んだ。この本を読んで犬好きな人が多い理由が分かったような気がした。犬が暮らす環境が人間と同じであり、犬は私たち人間の生活に非常に適合したために種としての存続に成功したと著者は分析している。
犬の知能は人間の二歳から二歳半のレベルだそうで、犬が一生のうちに持つことができる感情のすべては、生後四ヶ月から六ヶ月で身につくそうだ。犬は、人間の場合、二歳半から五歳までに芽生える恥とか、自尊心、罪悪感、軽蔑といった感情を身につけることはないそうだ。
人間が生後二歳半までに身につける感情は、興奮/覚醒から始まり、苦しみ、満足、嫌悪、恐れ、怒り、喜び、疑い/はにかみ、好意/愛情だという。人間のこどもが最も可愛らしい時期は二、三歳の頃のように思う。
もし、犬が恥とか、自尊心、罪悪感、軽蔑といった感情を持つまでに成長したら、私たちがこれ程、犬を可愛がっていただろうか。犬は、純真なまま生涯を全うするからいつまでも可愛いのではないだろうか。
恥とか、自尊心、罪悪感、軽蔑といった感情は人間が自立していく上で不可欠だが、もし、こうした感情が動物に芽生えたらおそらく多くの困難な問題が生まれるだろう。例えば、映画の「猿の惑星」のように動物が人間並みの感情を持つようになったら、そうした動物の処遇を本気で考えなければならなくなることだろう。
私たちは、多くの生き物の命を糧に生きており、人間本位の世界観で物事の善し悪しを判断している、極めて身勝手な動物だ。私たちは、そうした人間の身勝手な理屈も弁えた上で地球の一員としての自覚が必要なのかもしれないとまで考えるのは行き過ぎだろうか。
ちょっと話が逸れてしまったが、この本を読むまで犬は人間の七倍速く年取るという「ドッグイヤー」説で私は犬の年齢を考えていた。しかし、「ドッグイヤー」という考え方は、人間の平均寿命が七十年で、犬の平均寿命が十年と考えられていたときのものだそうだ。平均寿命だけをとって、犬の一年は、人間の七年にあたると計算しただけだ。
子犬は最初の一年でこどもを生むことができるようになり、人間のこどもの成長スピードよりずっと速く発達する。ドッグイヤー説なら十二歳の犬は人間で言えば八十四歳になるが、関節炎にかかりやすい犬でないかぎり、しっかり動き回ることができる。だからドッグイヤーという考え方は間違っていると著者は説明している。
著者の考えでは、犬の最初の一年目は、人間の十六歳に相当するそうだ。2年目で二十四歳、その後三年間は、一年に人間の五年分の年を取るそうだ。五年目の犬は、人間で言えば三十九歳だ。そして、その後は、犬の大きさで成長速度が変わる。五年目以降、小型犬は一年間に人間の四歳分、中型犬は五歳分、大型犬は六歳分年を取るという。これは、実感に近い年齢計算のように思う。
この本を読んで犬についてこれまで分からなかったことや気づかなかったことを理解できたように思う。この本の内容が本当に正しいかどうかは犬に聞いてみる以外に方法はないように思う。
あなたは、「犬になぜ狼爪があるのか?」ご存じだろうか。私は、そもそも狼爪という言葉を知らなかった。「ろうそう」という送り仮名がふってなければ読むことすらできなかった。狼爪自体は犬にお手をさせたときに気づいていたが、これまで何の疑問も持つこともなかった。科学とは、何故かという命題を抱くところから始まるのだろう。
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