所詮ということ
これから書く内容は、書評でも読後感想でもない。この本を読んで感じたことだが、それはこの本の内容ではなく、伝統とか、文化ということに対する認識についての疑問。言ってみれば、「所詮、……である。」という雑感。
本棚の肥やし
ブログの表題は、私が最近、読んだ文庫本のタイトルだ。たぶん、10年程前に表題に惹かれて購入した本だろうと思う。私は、学生の頃は、いわゆる、文学書が好きで電車や寝床の中で目が悪くなる程、本を読んでいた。文学だけでなく、ミステリー小説やSF小説もよく読んでいた。
しかし、サラリーマンになった頃から読む本は、小説からビジネス書のような実用書に変わっていた。読むのは会計や金融関係の実務書ばかりになった。それは時代の変化と共に次第に読みたいと思うような作家もいなくなったせいもあり、自然と実用書以外読まなくなってしまった。
ビジネス以外でときどき買っていたのがエッセイ本や趣味の雑誌だ。表題の本も趣味の対象として購入した本だ。しかし、私は、買ったまま読まないで放置しておくことがある。そして、買ったのを忘れて同じ本を買うことがある。理由は、いろいろある。買って家で読み始めたらあまり面白くないと感じて書棚にしまい込んで忘れてしまったり、後で読もうと思い、しまい込んだまま忘れていることもある。
今回の本は、たぶん後者だと思う。本棚の肥やしになっていることを本棚を見たときに何度か意識したことがあるからだ。しかし、その都度、そのうちに読もうと思って今日まで来たような気がする。おそらく、私は、著者の略歴と本のタイトルから内容を想像してこの本を購入したのだと思う。
究極なし
この本を読む前は、この本が職人としての著者の絶え間ない努力の末に行き着いた境地の書だとばかり思っていた。しかし、本書のまえがきに当たる部分に『味に「究極」はなし』という話が書かれており、この本が、料理だけでなく、味についての著者の偽らざる、自虐的な思いを書いたもののように思う。
この本は、辻調理師専門学校の創始者である著者のエッセイを集めて作られた遺作集であり、内容が本のタイトルに沿って書かれたものでないため、一貫性があるとは言えない。60歳で急逝した著者の遺作を遺族が収集して作った、故人を偲ぶための出版物であり、タイトルとの一貫性を期待して読むと期待はずれになると思う。
しかし、書かれたことで印象に残った記述がある。
〇「究極」という言葉を濫りに使って欲しくないのです。特に近ごろは、この言葉を、作る側ではなくて、食べる側がやたらと使いたがりますが、これは、輪をかけて安易な使い方です。
〇職人の腕がいくら良くても、悪い材料で美味しいものを作りだすのは不可能です。作り手が下手だと、良い材料も悪くなるが、作り手が良くても、悪い材料は良くならない。それが料理のロジックです。
〇料理は常に一回性のものであるということです。
〇(料理の楽しみは)主観的なものですから、これを客観的に記述しようというのは、そもそも無謀な試みです。
〇これほど、世界各国の食物や料理に興味のある民族は日本人をおいてないともいえるが、いいかえれば、これは日本人のあらゆるものに興味を示すひとつの例に過ぎず、伝統という言葉も軽々しく使うわりには、惜しげもなく投げ捨てていく社会層も生まれている。
伝統とか、文化
私は、最後の言葉を読んで確かに私自身、安易に伝統とか文化という言葉を使っているように思う。よくよく考えたら、私たちの実際の生活様式のより所自体、百年かそこらの間に形成されたもののように思う。
無論、ルーツとかいうことを考えれば、際限なく、過去に遡れるかもしれないが。伝統とか、文化とか振りかざして言うときの伝統や文化の底の浅さを認識した上で物事を考える必要があるように思う。要は、伝統とか、文化と言うときには、そこに価値を見いだして自分たちの生活を良くしていきたいという前向きな姿勢が必要とされると考えた。
著者は、フランス料理の日本の第一人者であり、それまでの料理の伝統から出発せずに海外に出てフランス料理の歴史を研究し、海外の三つ星料理店を食べ歩いたそうだ。肝臓が悪くなるほど、仕事として食べ歩いたそうである。これは、とても料理を楽しむという境地ではなく、食べる苦行を自分に課したのだろうか。
古代ローマ人で全部終了
その結論は、「古代ローマ人の食べていた食べ方というのは、大体がもう、我々が考えつくような食べ方はほとんど全部終了してしまった」と考えられるというものだ。「食卓にのる料理は文明化の過程の、ひとつの様相に過ぎず、繰り返しの連続としかいいようのない、他愛のない食事文化の断面図の、どこかを捉えているだけのことかもしれない。」という諦念とも取れる言葉が印象的だ。
味覚は主観的なもの
私などは、本格的なフランス料理と言えるものは、まだ20代のときに仕事で帝国ホテルで食べたランチしか思いつかない。しかし、余程、印象に残ったらしく、いまだにそのとき食べた料理を覚えている。それは、舌平目のムニエルだ。オレンジがかった濃厚なソースがかかっており、正直、くどい味だと感じたのを覚えている。私とは、無縁な世界の料理だと思った。
私は、料理は、素材の味の分かるシンプルなものが好きだ。一番好きなのは、お刺身だ。しかし、フランス料理の手間を考えるとお刺身が料理と言えるのかというためらいはある。しかし、フランス料理の権威が、味覚は、結局、主観的なものであると書いているのを読んでちょっと安心した。
確かに誰の口にも合う料理というものはないように思う。料理は、民主主義に似ている。手間とコストがかかるが、料理の味を評価する権利は食べる側にある。作り手は、食べる側の評価により腕を競うことで技術が向上するのだと思う。ただし、誰の口にでも合う料理は存在しないということか。
著者は、食事の楽しみについてこう書いている。
〇まず、良き仲間、グッド・カンパニー。つまり、一緒にいて楽しい人たちと食事を共にすること。一緒にいて楽しい人というのは、ざっくばらんに話ができて、なおかつその人を尊敬して、その人が、こちらにないものを持っている。二時間、三時間共にしている間、言葉の端々に、一言でも「聞いてよかったな」と思わせてくれることばがこぼれてくる人。そんな人を相手に食事を共にすることほど人生最高の楽しみはないでしょう。
そういうことのようです。 おしまい
(追記)
ネットで文化と文明の違いについて検索してみたら、面白い記述を見つけた。そして、ガラパゴス化が文化であり、コモディティ化が文明だと考えた。
👉文化と文明 ~『文化と文明という言葉があります。そして「企業文化」「組織文化」という言い方をしますが、「企業文明」「組織文明」という言い方はしません。この違いは何でしょうか?』
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