旅の目的
私は、一昨年の初秋に開業して間もない北陸新幹線に乗って初めて富山と金沢を旅した。旅と言っても3泊4日のごく短い滞在だった。開業したばかりの北陸新幹線に乗ってみたいという単純な動機から思いついた旅だ。
また、コンパクトシティ構想で評価の高い富山市を実際に見てみることも目的の一つだった。しかし、旅から戻ってこの旅のことをブログに載せるかどうか考えあぐねていた。単なる旅行日記みたいなものならいつでも書くことができたが、街づくりという視点で記事を書くには迷いがあったからだ。それで今日まで来てしまった。
富山市の印象
富山市のコンパクトシティ構想にもとづく街づくりはそれまで得ていた情報とはちょっと違っていた。メディアの情報のように先進的な取り組みという印象は残念ながら受けなかった。確かに新幹線の改札を出てすぐ駅構内で路面電車に乗り換えることができることは便利だと思った。
駅の1階には観光客向けの新しいショップがあり、駅の正面口を出ると近代的な円弧上の屋根が架けられてその下に各方面別にバス停が配置されており、新幹線、路面電車、バスの乗り継ぎがスムースにできるようになっている。
構内で市内を循環している路面電車「セントラム」に乗車して宿泊予定のホテルに向かった。この路面電車は市内を回遊することができるということがコンセプトになっている。到着した日が日曜日の午後ということもあり、乗客はまばらだった。
路面電車に乗って車窓から見る風景は遠い昔に家内と訪れたカナダのバンクーバーに似ているような気がした。人影まばらなビル街の中の街灯に季節の花をあしらったハンギングバスケットがかかっている風景を見てかつて訪れたバンクーバーの光景を思い出した。
富山に来るまでは駅前について漠然としかイメージしていなかったが、駅構内にあるホームから乗車した路面電車の車窓から見た実際の富山市の街並みは人影の少ないオフィス街という感じだった。仙台市を小型にしたようなオフィスビルが立ち並ぶ街並みだった。
路面電車の路線の内側にビルに囲まれて富山城址公園が配置されており、街並みはそれなりに美しいと思った。しかし、市内のビルの中にある商店街は活気が感じられなかった。空き店舗が目立ち、人口減少に苦しむどこにでも見られる風景が拡がっていた。
ビルに囲まれた商店街の中には地元の銀行が作品と場所を提供している小さな美術館があり、私たちが中に入ったときには客は私たち二人だけだった。見た絵画はなかなか良かった。美術館を出ると商店街の一角でイベントが行われ、主催者側と思われる若者が何やら楽し気に話しながら歩いていた。
実は、私は街づくりのためのイベントには懐疑的だ。イベントはオリンピックと同じ類で開催後は祭りの後のような寂しさと虚しさを私は感じる。街づくりは、本来、そこに住む人たち自身が住みたいと思う環境をつくることが大切なのではないかと最近考えている。
街づくりは誰のため、何のためか
自分たち自身で地元の美味しいもの作って食べ、身の回りの環境を自分たちが住むために自分たちで整備するべきではないだろうか。話題のスポットは行ってみると地元の人はあまり行かない場所が多いように思う。そうなると誰のための街づくりなのだろうか。単なる人寄せパンダ施策なのだろうか。
外から人を呼び込むという地方の街づくりの発想自体が間違っているのではないだろうかと最近思っている。本当は自分たちが住みやすい街を造ってみたら定住者が増え、外からも人が結果的に流入して来たというのが望ましい街づくりの在り方のように思う。
人を外から呼ぶという発想ではなく、自分たちが住みたい街づくり、そこをこだわる先に他の地域との違いが生まれるように思う。他所の街づくりの成功例を真似するから全国どこに行っても同じような施設が造られ、同じようなイベントが繰り返され、そのうちに飽きられてしまうのではないだろうか。もう止めたらどうだろうか。
目先の成果だけを追う企業に頼って街づくりをしてもそうした街はやがて廃墟となり、負の遺産の際限のない再生産が繰り返されることになるだけなのだろう。地道に自分たちが住みたい街をつくる方が地域の持続性につながるように思うのだが…
富山市を短期間、旅してみてご当地グルメやイベントに依存した町興しに終始しているように感じられ、自分たちの街を自分たちために良くしたいという思いが伝わって来なかった。マニュアル頼りの街づくりではなく、自分たちの日々の生活が楽しくなったという実感がない、メディアや口コミの評価で街づくりの成果を判断するのを止めるべきだと思う。
まず、地域内での地産地消を進めて外部の消費に頼らないでも生活ができる循環社会を造ることが大切なのではないだろうか。地域でできるものは極力、自分たちで生産して自分たちで消費すれば、そこに自然と仕事が生まれてくるはずだ。
自分たちの商品の良さや美味しさが実感できないものを作ってもやりがいも生き甲斐も生まれない。まして愛着も生まれるはずがない。人から評価されることが仕事の原動力となることは間違いないが、まずは自分の住んでいる地域での評価を高めることから始めるべきだ。
その商品が欲しかったら地元に買いに来いという街づくりにしか未来はないように思う。グローバルでコモディティ商品(汎用品)を販売しても際限のないコスト競争に巻き込まれて疲弊するだけのように思う。小さな確固たる商圏の方が持続性が高いはずだ。
息の長いニッチな商品にこそ文化が宿る。グローバル商品は文明であり、新しい技術で常に更新され消耗され、やがて消えていくもの。グローバル商品は一時的に莫大な利益を生む可能性がある反面、新しい商品が出現すれば、規模が大きければ大きいほど損失も大きくなる。どちらに持続性があるかは明らかなように思う。
私が印象に残った立ち寄り先
富山市内のホテルに滞在し、富山駅を起点にしていくつか観光スポットを訪れた。あれから1年ちょっと経っても印象に残っているスポットがいくつかある。
ひとつは新湊漁港に隣接する富山新港に係留された海王丸(お役御免となった展示用の商船学校の練習船)だ。見学前は正直あまり期待していなかったが、船内は往時のままの重厚な内装が保存されていて思わず感心してしまった。
富山駅から出ているJR在来線を引き継いだ第三セクター「あいの風とやま鉄道」に乗り、高岡駅で路面電車の万葉線に乗り換えて海王丸駅で下車した。平日の通勤時間を過ぎた午前中の路面電車には数名の老人と幼子を連れた女性しか乗っていなかった。
車窓から見る沿線の風景はセピア色の古い写真のようで日本のこれからの人口減少社会を眺めているような気分だった。無論、日本のどこでも沿岸はうら寂しく感じさせるものがあるので万葉線の沿線に限ったことではない。そしてこうした賑わいとは離れた風景も街全体から見れば必要な空間なのだと思う。
海王丸を見学した帰りに高岡駅で下車して立ち寄った国宝の瑞龍寺は私が今まで見たお寺の中で最も印象深く、他の寺院のような華美な装飾がないシンプルで美しいお寺だと思う。私は何でもシンプルな作りのものが好きなのでこのお寺は本当に素晴らしいと思った。
余計な装飾が一切ない重厚な梁や柱が静謐な空間を創り出しており、人に自慢したくなる建築物だと思う。ただ一つ残念に思ったのは参道だ。最近、再整備されたらしく参道自体は洒落ていた。しかし、参道に面して一般の住宅が建っており、失礼ながら景観上はどうなのだろうかと感じてしまった。
参道は、元々車の入って来ない住民の生活道路だったのだろうか。だとしたらやむを得ない。だけど、せっかくのこれだけ風情のあるお寺の参道としては残念な気がした。
旅の最後の日に足を延ばして金沢の兼六園と金沢21世紀美術館に行った。兼六園は立派な庭園だったが、庭園入口までの坂道が少し長く感じた。金沢21世紀美術館は来場客で混雑していたが、展示されている作品はかなり前衛的で誰が見ても面白いスポットとは言い難いように思う。
金沢駅から兼六園行きのバスに乗車したが、車内は観光客で混雑しており、富山より多くの観光客が訪れているようだ。しかし、車窓から見る街並みに派手なチェーン店の看板が目につき、京都のような景観条例による厳しい規制はないようだった。できれば街並みに合わせて看板の色を統一する方がいいのではないだろうか。 おしまい
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