サッカーのワールドカップで日本がポーランド戦で負けて勝ったことについていろいろな見解があるようだ。負けて勝つと書いたが、これは正確な表現ではない。何故ならポーランド戦は1対ゼロで負けたのだから。
おそらく、負けて勝つという言葉に意味があるのは、試合には負けたけど、何か得るものがあったときだろう。今回の場合は試合には負けたけれども決勝トーナメントに進出できた。悲願の決勝トーナメントに進出できたのだから監督の選択は正しいかったというのが擁護論だ。
私はサッカーの試合は普段見ない。しかし、今回のポーランド以外の試合は見ていて面白かった。接戦だった。しかし、ポーランド戦のボール回しは本当につまらなかった。一気に気持ちが冷えてしまった。観客としての立場に立ったときにこの点については異論は出ないと思う。
だから、今回の試合を容認するのは選手の側からの視点に立ったときだろう。決勝トーナメントは選手のひとつの目標であり、観客はまだ日本の活躍を見ることができる。しかし、それは選手側の論理に過ぎない。
ルール上問題ないという意見がある。私はしかしと思う。ペナルティが順位を決める判定項目となった(正確には「退場数と警告数で算出するフェアプレーポイント」というそうだ。)のは今回からだそうだが、その前提として最後までフェアな試合をするという暗黙の前提事項が存在しているのではないのだろうか。
柔道やレスリングでは消極的な試合をした場合には指導や警告が出され、指導や警告が一定回数を超えるとペナルティとして減点になる。サッカーもこうした制度を導入するべきではないだろうか。消極的な試合を観客は望んでいない。
勝てばいいということがスポーツに限らず、ビジネスでも公正な競争をゆがめ、組織としてのモラルの低下を招いているように思う。結果がすべてではない。過程に問題があればフェアとは言えない。選挙も同じだ。勝てばすべてが許されるという考えが社会にはびこっているのだろう。ルールとは道義上の問題を含んだものだと思う。
しかし、道義上の問題だけで罰するのは行き過ぎだろう。道義上の問題は行為者の自律的なルールとして存在するべきだと思う。これはきれいごとではない。尊敬の対価だ。ところが、法律や規則に明確に違反しない限り何をしても自由だと考える輩が世の中に増えており、尊敬できる人間がいなくなりつつある。
今回の日本が行ったことは対する私の結論は尊敬できる行為ではないということだ。矜持を失ったらスポーツに限らず、どんなときでも「それをしちゃあ、お終いよ」ということだ。
私が白鵬の相撲が嫌いなのも、安倍政権が嫌いなのも同じだ。モラルがないところに謙虚も真摯も存在しない。
私には何かを熱狂的に無条件で支持することはできない。何をやっても自分の支持するものを応援する人は尊敬できない。だから、またサッカーや相撲を見ない自分に戻ることにする。わざわざ、寝不足になってまで試合を見るだけの意欲は失われてしまった。
テレビでコメンテーターが決勝トーナメントで勝ったら監督の判断が正しかったことが証明されると発言していたが、それは違うように思う。勝っても負けても今回の判断とは無関係だと思う。もし、勝ったとしてもこうした消極的な試合が今後、再現されることを観客は望んでいない。 おしまい