2019/11/26更新
私は今度の騒動まで英語民間検定試験を国が進めていることすら知らなかった。忌憚のないことを言えば、現在、まともな日本語を話すことも書くこともできない若者が日本には増えているように思う。それなのに英語教育を義務教育段階で強化する必要があるのだろうか。
現場の教師では対応できないから民間に丸投げしようとしたのだろう。今の政治家や役人たちはなんでも民営化すればという発想しかない。その政治家と役人たちで4技能を習得している人材はほとんどいないように思う。他人事なのだろう。戦争に行くときも自分たちではなく、若者だ。
☆関連法人は、ベネッセと共同で英語検定試験を実施している一般財団法人・進学基準研究機構。この法人はベネッセ東京本部と所在地が同じ。英語試験法人に天下り 旧文部省次官ら2人 衆院予算委~文科省の伯井美徳高等教育局長は予算委で、旧文部省の事務次官経験者が同法人に再就職し、十月一日まで理事長を務めていたことを明らかにした。国立大学の事務局長を務めた文科省退職者も同日まで参与を務めていたと述べた。(2019年11月7日 東京新聞)
きっと、日本語も英語も中途半端な日本人が増えることになるだろう。英語の習得がそんなに大切だと言うなら、いつもの強行採決で英語を公用語にしたらどうだろうか。
日本語は非関税障壁か
海外からの労働者に日本語の習得を強制する必要もなくなる。教科書も製品の取扱説明書も英語にしたらどうだろうか。TPPの条文の日本語訳はあるが、日本語の条文は作らなかったそうだから、今回の英語検定試験も非関税障壁の撤廃の一環なのかもしれない。
☆にほんでいきる 外国籍児童・生徒1万人超が日本語「無支援」~日本の公立学校(小中高と特別支援学校)に通い、学校から「日本語教育が必要」と判断されたにもかかわらず、指導を受けられていない外国籍児らが全国で1万400人に上っている。毎日新聞が文部科学省に情報公開請求したところ、こうした児童生徒が全都道府県にいることが判明した。日本語が分からず授業が理解できない「無支援状態」の児童生徒が、外国人集住地域だけでなく全国に広がっていると言え、国レベルの対策が急務になっている。文科省は2年に1回、「日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査(日本語指導調査)」で、公立学校に通い日本語教育が必要な児童生徒の人数を調べ、公開している。2016年5月の調査では、日本語指導が必要な児童生徒は全国の8396校に4万3947人確認された。多くは外国籍だが、保護者の結婚などで日本国籍を取得し、移住した児童生徒も含まれる。このうち3万3547人は日本語指導のため特別に配置された教員(加配教員)や非常勤教員、ボランティアらから指導を受けていたが、24%に当たる1万400人は誰にも指導されていなかった。無支援状態の児童生徒は14年度調査に比べ3684人増えていた。(2019年5月4日 毎日新聞)
米国から見たら自分たちに不利なものはみんな非関税障壁なのではないだろうか。しかし、米国人が流暢に英語を話すから優れているということはない。米国人が英語を流暢に話せるのは当たり前で就職に有利なわけではない。口がうまい人は出世することはあるだろうが、英語が話せるだけで米国でいい仕事に就けるはずがない。
根底にコンプレックス
海外企業と取引するときに英語は役立つだろうが、英語ができるから商品が売れるわけではない。相手がほしい製品を提供できなければ英語をしゃべることができるだけの日本人に用はない。私たちは日本語を上手に話す外国人を褒めることはあるが、尊敬しているわけではない。
それなのに英語が話せる日本人に対しては優れているという感情を抱きがちなのはどうしてだろうか。それは、自分が英語を話せないというコンプレックスの裏返しなのだろう。人は自分ができない能力を持っている人を相手が自分にできないことをできるというだけで優れていると捉えがちだ。
以前、テレ東のニュース番組の中で外人コメンテーターが英語教育の必要性を唱えていたが、私は強い反感を覚えたのを思い出した。そのコメンテーターの日本語の文法と発音は相当にひどいレベルで聞きづらかった。
使わない英語は役立たない
そもそも今回の英語検定試験の目的である「話す」「書く」はどの程度のレベルをめざしているのだろうか。日本語の読解力すら疑問符がつく学生に英語で中身のある文章を作成することができるのだろうか。日本語で書けないことが英語なら書けるのだろうか。日本語で伝えられないことを英語で表現できるのだろうか。
受験のためのにわか勉強の英語が役立つとは思えない。従来から取組んできた「読む」「聞く」ですら社会に出て役立っていると感じているビジネスマンは皆無だろう。それなのに役立つとは思えない英語教育のさらなる強化に取組む必要があるのだろうか。しかも、どこで誰がどのような検討をして導入を決めたかすら国は公表しようとしない代物だ。英語を習得させたい親は現在でも自分の子供に身の丈以上に教育費をかけているように思う。
英語検定試験はすべての子供にピアノの勉強を義務付けるようなものだと思う。誰もがピアノを弾く必要はない。誰もが英語に堪能になる必要はない。スポーツの才能のある子はスポーツに一生懸命取組めばいい。音楽が好きなら音楽に挑戦すればいい。
ピアノを習う子供は多いが、ピアノを職業にできる人間は限られている。スポーツに打ち込んでも海外で活躍するときに語学の勉強が必要になる人もある。しかし、その言語は英語とは限らない。
使わないものは身にならない。しかし、言語の習得が本当に必要になれば、ネイティブスピーカーのレベルをめざすのでもなければ、必ず必要なレベルの語学力は身につく。あの伊達公子が現在、流暢に?英語をしゃべっているのだから驚きだ。しかも、グランドスラムの試合の解説で選手の発した言葉を解説しているのを聞いて人間、必要があればなんでもできるのだと感心してしまった。
小泉進次郎がこれからは相手と英語で議論できないといけないというような発言をしているが、進次郎の英語の発音は典型的なジャパニーズイングリッシュのレベルだ。本当に相手と英語で議論するなら、英語のニュアンスまで理解できるネイティブスピーカーレベルの英語力が必要になる。
なぜ、不利な英語で大切なことを議論しようとするのだろうか。英語で話すことより話す内容に戦略を練るべきで、そのとき英語と日本語のどちらが有利なのかは自明のはず。コンプレックスの裏返しなのかもしれない。議論よりパフォーマンスが目的なのだろう。
われわれが日本語をしゃべれる外国人と話しているときは、たいていの場合、相手のしゃべる日本語の意味をくみ取る努力をしている。そして、相手に通じるような日本語を探して話しているのではないだろうか。米国人が日本人と英語で話すときも同じ努力をしてくれているように思う。
英語は手段にすぎない
中途半端な語学力は社交辞令レベルでは通用してもナチュラルスピーカー同士のような意思疎通は困難だ。散々、AIで通訳が不要になると喧伝しておきながら、すべての子供に英語の勉強を押し付けるのは矛盾しているように思う。
私は、AIで通訳が不要になるとは思っていないが、簡単な英会話は翻訳機を大いに利用すればいいと思っている。コミュニケーションは目的でなく、手段にすぎない。代替手段があるならそれを活用するべきだ。AIで生産性を上げる前に無駄な教育に資金を投じるのは愚かなように思う。
最近は教育万能論が蔓延しているが、大学を出たらいい仕事に就けるというのは事実と異なるように思う。大学を出ただけのマニュアル人間は多少、英語がしゃべれても必要とされていない。英語をしゃべることより考える力を養うことが重要だと思う。利用者の多い英語は情報量が多いので無視はできないが、英語は考えるための情報を得るための道具にすぎない。
違いが分かる人間の協力が不可欠
最近、音声機器をアマゾンで購入した。梱包していた箱の中には製品といっしょにレビューの書き込みを求めるカードが入っていた。日本語がおかしい。「注文した商品ページが開きまして…」というくだりがある。この表記だけでこのカードの日本語を書いた人間が中国人らしいと想像できる。
日本人なら「注文した商品ページを開いたら…」と表記する。普通の日本人の英語も所詮このレベルなのではないだろうか。しかも、連絡用のメールアドレスがヤフーメールというのもちょっといただけない。しかし、日本人の感覚が理解できなければ、そのことに気が付かないだろう。しかし、このカードの作成する過程で日本人から意見を聞いていればカードの表記はもっと日本語らしいものになっていただろう。
AIの問題も似た問題があるように思う。AIはたくさんのビッグデータを集めることで答えの精度が高くなるが、AIがニュアンスまで理解して最適な答えを出す日が来るか極めて疑問だ。統計的な使用頻度以上の精度を求めることは難しいように思う。
添付されていた取扱説明書には「ご注意:マイクの点滅周波数は、マイクの音量入力に決めます。音が大きくなるほど、光のちらつきが速くなります。」という注意書きがある。推測すればなんとか意味が理解できないこともない。現在の文章の機械翻訳のレベルはこの文章のレベルに近い。
この注意書きの本文のタイトルが「基本機能の説明構造図」となっているのに「ご利用方法」という文章が続いてなぜか、構造図らしき図や表記は存在しない。単に基本機能の説明で十分なのにそのことに気が付いていない。文章力以前の問題だ。考える力があれば表記は異なっていたはずだ。疑問があれば、知っている人に意見を聞いてみただろう。
おしまい