2019/11/15更新
フジテレビ報道局解説委員が「今回の決定は受験生に大混乱を招くだけでなく、今後の日本の英語教育改革に大きな禍根を残すことになった。」と主張している。そして「世界のグローバル化が加速する中、改革が5年間行われないことは、今後の日本の英語教育にとって致命的だと言える。この決定を受け、対案無いまま批判を繰り返した野党やメディアは、さぞや溜飲を下げただろう。」と安倍政権を擁護するマスコミや学者、そして維新が得意の対案論法で問題の本質のすり替えを行おうとしている。対案を挙げないなら役立つとは思えない政策が正しいということにはならない。
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そもそも英語教育に民間試験を導入したら英語のレベルが上がるのだろうか。予備校がこれまで長いこと、受験に役立つ英語を提供してきたが、学生の英語のレベルは向上しただろうか。現実は「読む」というレベルですら学生の英語能力には疑問符が付く。「聞く」に至っては何を勉強してきたのだろうかというレベルのように思う。
「話す」、「書く」を受験対策に追加したところで結局、受験のための英語教育産業が利益を得るだけになることは目に見えている。議論するべきなのは大学受験で英語の能力を伸ばすという政策が適切なのかどうかということだと思う。
あれ程、受験に熱心な韓国で英語教育の成果が出ていないのはなぜだろうか。結局、使わない英語になっているからだろう。大学の門を狭めるより、大学に入ってから専攻した学科の勉強の過程で必要に迫られて英語を使うなら英語の力が伸びるかもしれない。
学科によっては英語の習得が必要でないものもあるだろうし、あるいは英語以外の語学力が必要な場合もある。人間、必要になれば努力するし、必要なレベルの能力は身につくはずだ。
なんのために英語を学ぶのかという理念もなく、ほとんどの学生が役にも立たない受験用の英語の習得に時間を費やすことは徒労に終わるだけだろう。大学受験に通るための英語勉強の負担が増えるだけだ。
「読む・聞く・書く・話す」の4技能教育を推進する立場で、制度設計に関わった上智大言語教育研究センターの吉田研作センター長も「制度実施は可能だった。できる限りやってほしかった」と語っているが、なぜ試験をやる必要があるのかということには触れていない。
☆英語民間試験「実施できた」推進の専門家~大学入学共通テストへの英語民間検定試験導入の延期を巡り、「読む・聞く・書く・話す」の4技能教育を推進する立場で、制度設計に関わった上智大言語教育研究センターの吉田研作センター長が7日、東京都千代田区の日本記者クラブで会見した。試験会場の多くが都市部に限られ、地域格差を助長すると指摘されたことに「全都道府県に会場がある試験もあり、制度実施は可能だった。できる限りやってほしかった」と語った。(2019/11/7 共同通信)
制度を始める前に世界の英語教育の実情をリサーチした上で得意の国家戦略特区を使って実証実験でもしたらどうだろうか。そして、すべての情報を国民に開示してほしい。
グローバル化に対応するためというが、その具体的な中身が知りたい。トヨタのような大企業に入社して日本の車を世界中に売り込むために必要なのだろうか。グローバル化の権化のような元アップル・マクドナルドの社長原田泳幸氏や元日産のCEOカルロス・ゴーン氏のようなコストカットで業績を上げて高額の報酬を得る人間の育成をめざすのだろうか。
あるいは博打のような海外企業への投資で巨額の利益を上げながら適切な?節税で一円の税金も払わないソフトバンクの会長孫正義氏のような経営者になる人材の輩出が目的なのだろうか。最近、孫正義氏は自社の投資ファンドでこれまでの利益を吹っ飛ばすような巨額の損失を出して失敗は認めたものの反省はしていないようだ。
三人とも英語の「読む・聞く・書く・話す」能力は申し分ないように思う。しかし、どの人物も尊敬できない。三人の共通点を考えていたら強欲ということばが浮かんだ。最近はリスペクトするということばを簡単に口にする若者が多いが、私が尊敬する人を聞かれて思い浮かぶ人は、先日、亡くなった八千草薫さんくらいしかいない。
三人に共通しているのはお金儲けが上手なことだろうか。グローバル化とは結局、世界でお金儲けをすることにすぎないのではないだろうか。
日本は本当にグローバル化競争に負けたから経済が長く低迷したのだろうか。英語がしゃべれる若者が増えたら日本の経済が良くなり、庶民の生活が豊かになるのだろうか。
しかし、現実はグローバル化で大企業はコスト削減のために工場を海外に移し、賃金の安い労働者を海外で雇っている。そして、今度は安い賃金の労働者を大量に輸入?することで賃金コストを抑えようとしている。
グローバル化とは結局、大企業のコスト削減手段のことではないのだろうか。英語が話せる人材が必要なら若者の英語能力を高めるという手間のかかる効率の悪い方法など取らずに英語が話せる海外労働者をどんどん増やす方が、より生産性が高いのではないだろうか。
海外労働者とのコミュニケーションのために日本語より英語の方が役立つということではないのか。しかし、英語で日本人がどんなに努力しても団体戦ではネイティブスピーカーに勝てるわけがない。最初から負けるとわかっている土俵で勝負してどうなるのだろうか。
しかも、英語の能力が身についた人間は収入を求めて海外に出ていくのではないだろうか。理由はプロ野球選手のように「海外で自分の力を試してみたい」ということになるのだろう。ますます国内の人材の空洞化が進む可能性もある。そして、収入が増えるほど累進課税に不満を持ち、税金の安い地域に居所を移す人間が増えるのではないだろうか。
グローバル化の正体がはっきりしてきたから世界で移民排除の動きが強まって来ているのではないだろうか。英国のEU離脱はグローバル化という資本主義の流れに対するアンチテーゼではないだろうか。
米国ファーストを掲げるトランプ大統領が自由貿易のちゃぶ台返しを行っているにもかかわらず、米国の経済の調子がいいのはなぜなのだろうか。グローバル化の騎手で勝利者のGAFAが労働者の生活を豊かにするどころか、節税で利益を内部にため込み、一般の労働者の労働環境は悪化の一途を辿っているのをどう説明するのだろうか。
グローバル化に対応するためとみんな口にするが、その中身を理解している庶民は少ない。グローバル化という訳の分からない魔法のことばをオーム返ししているだけなのではないだろうか。
グローバル化がいいことだという先入観を植え付けているのがマスメディアだ。公平で公正な市場などというものは存在するはずがない。企業にとって自分たちが生き残ることが正義であり、共存共栄というグローバル市場は談合でもしないかぎり、存在しない。
競争に負ければ、元も子もないというのが本音だから社会貢献という理念はグローバル化と共存できるはずがない。食うか食われるかでコントロールされている従業員に会社が倒産すれば、あなたの働く場がなくなるのだと言われれば、抵抗できる人間の方が少ないに決まっている。
グローバル化への対応は働く人たちのためではなく、企業が生き残るためだ。だから誰かがグローバル化ということばを使ったら、企業が生き残るためという結論しかないはず。それなのにグローバル化が、あたかも個人が生き残るために必要なツールであるかのように企業もメディアも、そして国も庶民を洗脳しようとしている。
EUというグローバル化の実験が大きな副作用があることを示したのが、ヨーロッパで起きている移民や難民の排斥だと思う。グローバル市場でみんなとは言わないまでも多くの人の暮らしが豊かになっていれば、こうした副作用は生じなかったはずだ。
豊かになった人よりも貧しくなった人の方が増えているから不満を抱えた人間が声を上げているのだろうと考えられる。少なくとも、グローバル化は多くの人を幸せにするための道具ではないことが証明されつつある。
それなのにグローバル化のために英語の語学力をつける努力を若者は強いられる。グローバル企業にとってそこで働く人はコストにすぎない。英語の能力が高いから高い賃金が払われるのではなく、英語が使える人間が少ないという希少価値で雇用される確率が高いだけだ。だから、みんなが英語を話すようになったら、語学力自体に価値はなくなる。残念ながら資格を持っているだけで実務ができない人はよくいる。
労働者は利益を生み出す価値しかグローバル企業では求められていない。企業が生き残るために必要なものしかグローバル企業にはいらない。必要なものを安いコストで手に入れられ、無駄なものはいつでも切り捨てることができる制度をグローバル企業は必要としているだけだ。
そう考えるとグローバル企業はエイリアンなのかもしれない。進出した国の経済は自分たちが生き残るために必要なだけだ。稼ぐだけ稼いで絞りとるものがなくなったら、簡単に撤退できる制度を持った国がグローバル企業にとっての良い国だ。
日本は今、その都合のいい国に変貌しつつあるように思う。日本人の英語能力が上がることはグローバル企業にとって好都合だ。いつまで経ってもネイティブスピーカーに追いつける日は来ないし、日本が英語圏になれば商売がしやすくなる。日本語という非関税障壁もなくなる。米国に歓迎の意を表すために日の丸の横に☆印を付けた国旗にしたらどうだろうか。
英語圏に変身したときに今、日本人が存在していると思っている日本らしさはなくなっているかもしれない。しかし、その時には誰もそのことに気づかないかもしれない。あるいはそんなことに関心すらないかもしれない。庶民にとって関心があるのは今、現在の生活のことだけだからだ。今、高齢者を批判している若者自身が高齢者になったときにきっと今と同じように既得権者として非難されることになるのだろう。歴史は繰り返す。愚かな人間に終わりはない。 おしまい